鉄は熱いうちに打て!

ここはエモーショナルの墓場

別に恋愛感情じゃなくてもクソデカ感情じゃなくてもいいんだよ

 クソデカ感情という言葉がある。いつごろ生まれたものなのかは調べてないから知らないが、わたしのようないわゆるオタク女の界隈には気づいた時には浸透していた。

 こんな汚い言い方をわざわざする必要はほとんどないし、巨大感情とか言っとけばいいものをあえて『クソデカ』と称して「綺麗な言い方をする余裕もないほど筆舌に尽くし難い(と発言者は感じている)感情」を指しているあたりがいちいち誇張表現をしがちなオタクっぽい語彙だなと常々思っている。

 が、クソデカ感情としか言いようのないものを目の当たりにすることも多いので便利な言葉だなと思ってどうしても使ってしまっている。エモいも初めて見た時なんだこの言葉絶対使いたくねえと反発しまくっていたのにいつの間にかその嫌悪感は消え常用する表現になってしまった。

 別にクソデカ感情とかエモいが日本語の乱れだとかそういう話をするためにこの文章を書き出したわけではない。ただちょっとこの『クソデカ感情』があまりにも便利すぎるため、多用しすぎているのかもしれないなと最近思い始めたので、今日はそういう話をしたいと思う。

 

 いきなり話が逸れるが、私はたぶんアセクシャルという性的指向の人間だ。


 たぶん、とふんわりしているのは物心ついてから長らく自分の性的指向について考えてきて、最近やっと結論が出たような気がする……という感じでまだまだふわふわしているせいなのだけど、ヘテロでもなければゲイでもバイでもなくそもそも恋愛感情というものがどういうものなのかをこの年になってもよく解っていない上、未だにそれを強く求める気持ちを自分の中に見つけることが出来ていない。だからたぶんアセクシャルで合っている、はず。こういうのは誰かに「あなたはこうですよ」とか当てはめてもらうものではないから、私がそうだと感じたらそれが答えなんだろう。

 ずっと恋愛至上主義の世の中が息苦しかった。今でも苦しい。誰か他人を好きになることが普通で、正しくて、まともであるように見える乱暴な世間の構造にぼんやりとした嫌悪に近いものを感じている。

 ひとえに、自分が真っ当な人間ではないんだろうなと思ってしまうことが辛かったのだと思う。

 私は自分自身が恋愛をすることに興味はなかったが、創作の上での恋愛は昔からとても美しいものに映ったので、私は小説や漫画や映画、ドラマ、アニメで様々な恋愛を目にしてきた。

 作中で描かれているものが恋愛ではなかったとしても、特別心が震えるような関係性の人びとに出会ったときには、彼らの感情を深く掘り下げたくて作品によってはこっそり二次創作をしたりもしたし、今もたまにすることがある。

 ふたりの関係はふたりのあいだにだけ存在するもので、そこに私はいない。第三者であるからこそ彼らの関係性を客観的に見つめてときめきを感じる瞬間が好きだった。他人同士が仲良くしていると嬉しいって謎の感情だなとしみじみ思うのだけど、嬉しいのだからしょうがない。しかも別にどちらかになりかわりたいとか、私もこういう相手が欲しいとか思うのではなくて、彼ら当人でないと意味がないと正しく理解した上でふたりが仲良くしていると嬉しい。やっぱり謎。

 それから、あるとき自分の中に性嫌悪じみたものが根強くあることに気づいた。なかば潔癖というか、いわゆる猥談が本当に苦手で、申し訳ないけれどそういう話が多い人とは縁を切ったりもした。相手はあるがままに生きているだけで私の気持ちの問題なのでこればっかりは仕方ないのだが、二次創作をしているとどうしても性愛的な部分を避けるのは難しくなってくる。

 自分でも見様見真似で何度か書いたりはしたものの、実は一度もしっくり来たことはない。書いたものを喜んで読んでくれた方には本当に申し訳ないが、あれは右ならえで頑張っていただけなのだと今は思う。友情なり信頼なり名状しがたい何かなり、ともかくわたしは彼らのそのままの関係性が好きなのであって、それがどういうものなのか自分なりに解釈を深めたいだけで、けして恋愛に進むことだけが全てではないよなと最近ようやく考えられるようになった。

 もちろん恋愛的な見方をするのが悪いとか間違っているとかそういう話ではなくて、みんなそれぞれの楽しみ方があっていいはずなのに、私も知らず知らずのうちに自分の好きなものを一般的な恋愛至上主義に押し込めていたんだなという気づきがあった、という話。


 ここからようやく冒頭の話に戻るが、ずっと自分はともすれば恋愛に転んでしまってもおかしくないような、それと比肩するような『クソデカ感情』を鑑賞するのが好きなのだと思っていた。
 でも近頃、本当にここ2、3日の話なんだけど、私は別にクソデカくない感情でも普通にときめくことが出来るなとふと思い直した。
 たとえば当人たちが愛し合っていなかったとしても、友達じゃなくても、仲良くなれなくても、ただなんとなくその場に居合わせたり、好きでも嫌いでもなくてもずっと一緒にいたり、ただ偶然袖すり合っただけでも、そこに何らかの情が生まれていたらもうその何かにたまらなくときめいてしまう。

 うまく言えないけど、自分から発生するものではなくて、私ではない誰かから発露したそれを見ていられたらそれで十分。だから別になんでもかんでもクソデカ感情にしなくていいんだよなって、そう思ったらなんだか少しすっきりした。

 これを書いたのは、実は私以外にもこういう人は一定数いて、おんなじように自分の感覚を捉え切れずに悩んでいるかもと思ったからで、これを読んでちょっとでもすっきりしてくれた人がいてくれたらいいなと淡い期待を抱いている。


 オチはない

 あとよかったら王谷晶さんの『ババヤガの夜』を読んでください。素晴らしかったので。この記事を書くきっかけのひとつです