鉄は熱いうちに打て!

ここはエモーショナルの墓場

無題

 タイトルを付けようと思ったときに、湿っぽい言葉しか出て来なくて、別に悲しい話をしたいわけじゃないんだけどなあとなり、結局無題で書き始めることにした。

 とりとめなく、今の素直な気持ちを書き残していきます。

 

 このことについて、4月からずっと書くか悩んでいた。

 誰にも気遣わずに正直なことを言うと、最初、本当に悲しかったし、嫌だった。

 減るよりは増えるほうがましだよと言われて、それはたぶんそうだよねと答えながら、でもあなたがかつて経験した悲しみと私がこれから経験する悲しみは多分似て非なるものだよね、と内心思っていた。お互いに心を寄せ合うことは出来ても、スタート地点が違う以上、受け止め方がぴったり同じになることは多分ない。そもそも違う人間だし。その人にはその人だけのグループとの出会いと歴史があり、私もまた同じなのだ。それは当たり前。仕方のないこと。

 オーディションが発表されて、私は箱そのものというより「そのときの状態」を好きになるオタクだから、間違いなく変容してしまうことがとにかく怖かった。今目の前にあるものはそれで完璧なのに、どうして? とずっと疑問だった。もちろん、本人たちがすごく悩んで決めたことなのは明白だったし、プラスの変化を求めているのは分かっていたし、それは尊重したい。というか、私たちに出来るのは決まったことを受け入れるか否かだけで、それ以外に出来ることなんて初めからない。尊重するとかしないとか、そもそもその土俵にすらいない。私たちは彼らではなく、ただ観察しているだけの立場なのだから。

 出来ることは、観ることを続けるか、止めるか。ただそれだけ。

 それから、今年の春から夏にかけて、泣いても笑っても私が出会った形である彼らを観られるのは春のツアーが最後になるからと、本当にいろんなところまで行った。どうしても見届けたかった。北は札幌から南は熊本まで、とても楽しかった。観るたび、大好きだなあと思った。

 でもふとしたときに、ああもしかしてこの曲を5人で観られるのはこれで最後かもと思い、涙が出た。不思議だよね。友達にも言われた通り別に人が減るわけじゃないし、人が増えても彼らはこれからも活動を続けていくのに、頭で解っていても、さみしい気持ちは消えてなくなることはなかった。ひとつ楽しいを積み重ねるたびに、カウントダウンが進むのが辛かった。

 もし新しい形を受け入れることが出来なければ、オタクはやめようと思っていた。

 旧体制の話を持ち出され「やっぱりあの形が最高だった」「あのときに戻ってほしい」と彼らが目にするかもしれない場所で言っている人を見るのが本当に嫌だったから。私はそうはなりたくなかった。今もなりたくない。ああなるくらいなら、潔く彼らのことは過去にしてオタクはやめる。私自身の美学に反するからと、決めていた。

 

 8月8日から100日が経ち、今も私はオタクを続けている。新しいメンバーがいるグループの姿にはすっかり慣れて、時折5人での姿を観ると「少ないな」と、物足りなく感じることすらある。元の形に戻って欲しいと思うこともない。メンバーみんなが楽しそうで、何より推しが本当に嬉しそうで、毎日充実していて、それが行動の端々からひしひしと感じられる。そのことが、素直に嬉しい。

 ただ時々、「これで完全な形になった」「元に戻った」というような趣旨の言葉を見かけたときだけ、たまらなくさみしい気持ちになる。

 確かに、あの時代は何かが欠けていたのかもしれない。不完全だったのかもしれない。グループの趣旨に反していたのかもしれない。けれど、私にとってあれもまたひとつの完全な形だった。1人だけの声に乗せて、5人が全力で踊る。その形を愛していた人間もちゃんとここにいる。

 これからグループはもっともっと上に行く。予感がある。最高は更新され続けているから。私も、これからもっと今の彼らを好きになるだろう。けれど、あのときの彼らが他の時代に劣っていたとは思わない。そのことをどこかに書いておきたかった。

 

 さようなら、5人の超特急。大好きだよ。私と出会ってくれてありがとう。

 9人と進むこの先もずっとずっと、大切な私のはじまり。

 

 最後に、9人の超特急へ。