鉄は熱いうちに打て!

ここはエモーショナルの墓場

2022年版『マーキュリー・ファー』を観た話

 死んだのか? と思うくらい前回から日にちが空いてしまった……。

 その間にいろいろな現場があり、あれも書かなきゃこれも書かなきゃ、でもこれを書く前にあれを……というものが山積してしまって、気づけば2022年も2月、それも半ばを過ぎていた。お久しぶりです。

 ということで書かねばならない記事は山ほどあるのだけど、取り急ぎ。先日無事、東京公演が千秋楽を迎えた『マーキュリー・ファー』(再演)を、世田谷パブリックシアターまで観に行ってきた。

 もうね、あまりにもチケットが取れないから、ひょっとしたらこのままだと1回も観られないのかな? なんてしょぼくれていたのだけど、ご縁があって結果的に2回も観に行くことが出来まして。2回観たことで、よりいっそう戯曲への理解が深まった部分もたくさんあったし、貴重なチケットを私が2枚も確保してしまって良かったのかな、と思わなくもなかったが、でもどちらの回も観られて、本当に本当にありがたかった。

 ただでさえ演者に精神的な負担を強いる作品だというのに、今こんな世の中にあって公演を行うカンパニーの緊張感は想像することも出来ない、本当に。本当に本当に、カンパニーのみなさまお疲れ様でした。

 引き続き旅公演は続く。心の休まらない日々だと思いますが、どうかあの部屋での一日が最後までなにひとつ欠けることなく描かれ続けるよう、ここから祈っています。


 観てもらいたいからかいつまんでギリギリのネタバレをするという器用なことが私には出来そうもないので、再演で感じたことをつらつら書いていこうと思う。

※出来るだけ核心をつくようなネタバレはしていないつもりですがこれから観る予定の人は読まないほうがいいかも※

 

 

 去年解禁になってすぐに記事を書いたとおり、私はこの『マーキュリー・ファー』という作品そのものに、思い入れがすごくある人間だ。というか、多分2015年にあの作品と出会ってしまった人のほとんどがそうだったんじゃないかと思う。

 今回、主要キャストのおよそ半分ほどがシアタートラムであの作品を観劇していたというのをパンフレットで読んで、あの箱の中に7年前、囚われたことのある人たちが演じているのだと思うと、すごく不思議な感じがしたし、同時にものすごく納得もした。

 再演を観てみてまず驚いたのは、吉沢亮演じるエリオットの喋る台詞に被さるように、7年前の高橋一生のエリオットの記憶が蘇ってきたこと。びっくりした。この作品のことを片時も忘れずに考えていたとかではなかったし、なんならたった1回しか観ていないはずなのに、はっきりとこの台詞を、この調子で聞いたという記憶が鮮明に思い出された。あれは、とても不思議な体験だった。

 吉沢さんが演じるエリオット。台詞の調子も、仕草も、本当に7年前観たそれをほぼトレースしていて、いっそ怖いくらいだった。

 こういう書き方をすると演技のオリジナリティがないように感じたと思われるかもしれないが、そうじゃない。本人の演技プランが実際にどんなものだったかは分からないけれど、エリオットのあの台詞量と目まぐるしく乱高下する感情の揺れ、そして『マーキュリー・ファー』という作品そのものの重量の中に居ながらにして、観客が忘れていたような7年も前の記憶をひっぱり出してしまうくらい正確に演じることが、どれだけの大仕事か。

 彼が「マーキュリー・ファーみたいな作品に出たい」と切望していたことは情報解禁以降なんども目にした話だったが、その並々ならぬ熱意が彼の一挙手一投足に込められているようだった。でなければあんなふうな芝居は絶対に出来ない。あの日トラムで観た芝居に、何よりも彼自身が魅了されていたのだというのが伝わってくる、あまりにも精緻で、その執心ぶりに切なささえ感じる鬼気迫る演技だった。彼のエリオットはまるで舞台機構のように、寸分の狂いもなくそこに“在った”。

 対して、北村匠海演じるダレンは、初演とまったく異なる役の解釈を観客に投げかけてきた。確かに聞き覚えのある台詞を口にしているはずなのに、こんなにも違って聞こえるとは。それはそれで本当に驚いた。しかも、あえて大きく変えようとしている空気すらない。彼のお芝居に関してはどうしても贔屓目が入ってしまうのだけれど、それを抜きにしてもこういうダレン像があったのか、ととても新鮮な気持ちでダレンを追うことが出来たおかげで、戯曲そのものの見え方も大きく変わった。

 彼もまた初演を劇場で体験したひとりだというが、その姿にいい意味で瀬戸康史が演じたダレンの影を感じる瞬間はほとんどなかった。“バタフライ中毒で過去の記憶も曖昧なふわふわした頭の弟”という役を、違和感なく自分だけのものにしてみせる。初舞台でこんなに堂々と自分の芝居が出来る役者はそういないだろう。この人の舞台でのお芝居がもっと観たいと思わせてくるような演技がそこにあった。最終盤、エルに縋る彼の声の響きが、今も頭に焼きついて離れない。

 加治将樹演じるスピンクス。再演でカンパニーそのものの平均年齢がグッと引き下がり、初演よりも若く見える役が多かった中で、加治くんのスピンクスだけは初演の小柳友が演じたそれよりも何歳か大人びて見えた(実際、演じたときの年齢が上なのもあるだろうが)。私は彼の人情深さや人間味が見え隠れする芝居が本当に好きで、何度もお芝居を観に行っていたひとりだったのだけど、まさか久しぶりに目にするのが『マーキュリー・ファー』になるなんて夢にも思わなかった……。キャストだけ見ても完全に“俺が考えた最強の『マーキュリー・ファー』”すぎて、実際にこの目で2回も観たのにいまだにこの座組みまじで? と思っている。

 7年前よりも自分が大人になったこともあるのだろう。初演よりもずっとスピンクスの気持ちに寄り添って観ることが出来た。終盤までヒールに見える彼の、兄弟やローラに対するあまりにも不器用な愛情表現。それと、姫への執着心。彼のお芝居を通して、いびつな『家族』である彼らの家長たるスピンクスという役の捉え方がまた少し変わったように思う。

 宮崎秋人演じるローラ。正直、期待以上に良かった。初演では中村中が演じたこの役を、男性が演じるとどうなるのか始まる前から気になっていたが、蓋を開けてみたら性別がどうとかではなく彼がこの役を演じることに意味があったなあと思う。

 彼のローラはただ『ローラ』として存在していて、男性が女性(ここではあえて”女性”と記します)を演じる不自然さを感じさせなかった。それだけでもすごいけれど、ローラという役が持つ複雑さ、か弱さや慈しみ深さをきちんと織り込んでいて、その存在がエリオットにとってダレンとはまた違う救いになっているという事実に信憑性を持たせていたのがとても良かった。初演の中村さんのお芝居に感じる哀切が私は好きだったので、ひょっとしたら一番どう転ぶのか心配していたのはローラだったのかもしれなかったのだけど、そんな心配は杞憂に終わった。

 小日向星一演じるナズ。再演のナズは北村さんの演じるダレンの無邪気さに呼応するように、初演で水田航生が演じた際のどことない胡乱さや一種の胡散臭さは鳴りをひそめ、幼さやあどけなさの際立つ役に様変わりしていた。

 彼が純粋な、屈託のない笑顔でエリオットたちの心に入り込んでいくスピードにとてつもない説得力があり、また舞台終盤で起こる出来事の悲劇性や恐怖心を増幅させる効果がよりいっそう強まっていたように思う。10代終わりか20代前半なのかと思っていたので、実年齢を調べてびっくりした。今後がすごく楽しみな役者さんをまたひとり知ることが出来て嬉しい。あと、加治くんが自身のツイッターで言っていたが星一くんのツイッターがなんかめちゃめちゃ癒されるので良かったら見て欲しい(なんの話?)。

 お姫さま役のゆうひさんも、パーティーゲスト役の水橋さんも、パーティープレゼント役の山﨑くんもそれぞれ素晴らしかった。素晴らしかったという言葉で片付けてはいけない熱演だった。個人的にパーティーゲストが、初演の半海さんの妖怪みたいな感じから、いかにも金融街で働いてそうなおじさんになっていたのがリアリティが増しててすごく嫌だった。褒めてます。

 1回目見終わってすぐ、先に観ていた友達と2時間電話で喋りながら歩いてうちに帰ったのだけど、込み上げてくる感情に言葉が追いつかなかった。おんなじことを何遍も話した覚えがある。ご迷惑おかけしました。

 まず第一に思ったのは、これをシアタートラムで観たかったなということ。

 世田谷パブリックシアターはすごくいい劇場だ。それは間違いない。でも、『マーキュリー・ファー』という作品を正しく受け取るためには、空間としてやっぱり広すぎると思った。7年前、あの一室に一緒に閉じ込められた記憶とは大きく違い、今回は俯瞰で観ている感触が強くあった。それはやっぱり、どうしても残念。

 次に思ったのは、前回、訳も分からず殴られてただ殴られた記憶だけが色濃く残り続けた状態から、今回ようやく戯曲の中身を読み取ることが出来たかなということ。

 電話で喋った友達の感想を借りると、初演の、とにかくエルとダレンのきょうだいにしか目がいかなかった状態から、作中の他のきょうだいたちに目を向けることが出来るようになったのが大きい。

『マーキュリー・ファー』を指して『愛の物語』と言うひとは多いが、今回は殊更にそれを意識した気がする。身勝手で、どうしようもなくて、歪なそれが、もっとどうしようもない世界の中で生きている彼らをどうにか生かし続けている。

 戯曲の在り方や見え方がこんなに変わってくるんだという一種のアハ体験みたいなものが今回の再演にはあった。スピンクスの項で書いたとおり、私自身が7年前より多少なりとも大人になったことも、今の世の中の状態がこんなだからというのもあるかもしれない。けど、7年も経ってこうして戯曲への理解を深められたということに純粋な喜びがある。
 初日より前に読んだ白井さんのインタビューの中で、「初演では兄が弟を引っ張り、最後弟が兄を引っ張っていたが、再演の兄弟は劣悪な環境と憤りに満ちた世界で手を繋いで必死に生きている兄弟に見える」と語っていたのだけど、観終わった後本当にこのまんまだな……と思った。だからこそ、ラスト付近の感じ方も初演とだいぶ違った気がする。

 初演のラスト、私はエリオットがあのあと救われたのかどうかばかり気になっていた。今回はそれとはまた違う感情で見届けた。自分の心の動きの違いが面白く、興味深い。

 初演のヒリヒリした感じやあの毒々しさが多少薄れているのは確かで、悪くいえば再演はうまくまとまりすぎているともいえるのかもしれない。それはこの世情がカンパニーに対して大いに影響しているところもあるのではないかと思う。

 千秋楽まで辿り着こうと張り詰めた緊張感の中でお互いを支え合っている空気が根底に流れているのを感じる。それはちょうど、極限状態の中で生き抜く芝居の中の彼らが感じているものと一種似た何かなのかもしれない。
 あと単純に今回のカンパニーも前回とはまた違った感触で、芝居の相性がすごくいい気がする。セリフのテンポとか空気感とか、バランスがすごくマッチしていて、誰一人として浮いた感じがしない。それういうのもあってまとまってるように見えるのもあると思う。

 個人的に、初演があって再演があるということをこんなにもポジティブに受け止められたのは初めてで、私はそれがとても嬉しい。今まではずっと、やっぱり初演のほうが好きだったなと思ってしまうことが心苦しかったから。過去は美しくなっていくばかりの幻想だと思うので、その幻想に負けずに、というかそもそも勝負すら始まらなかったというか、初演があるからこそ再演がありブラッシュアップされたものを観て、そこで作品そのものの解像度が上がったという単純かつ深い喜びがここにある、という感じ。観られて本当に良かったし、こんなふうに感じさせてくれた作品がこの『マーキュリー・ファー』であることがまたとても嬉しい。
 パンフで白井さんのインタビューを読んで、彼もまたこの戯曲を、芝居を、常に突き詰めて研究しているのだなあと思ったから、なおさらそう感じるのかもしれない。

 

 7年抱え続けたあの殴られた痛みが一種浄化されてしまったことをさみしく思う気持ちもなくはない。

 でも、もしまたいつかこの作品が再演されるとしたら、またそのときの自分でこの戯曲と出会いたいと思う。

『マーキュリー・ファー』は、私にとってそういう作品になった。


2/24追記)

 今この世界にあって、この作品が上演されていることの意味をあらためて考えている。

 

 ここまで読んでくれた人いたらありがとう!